18、テキサスサウンド その3 (テハノ・カントリーの魅力)

第3章 テハノ・カントリーの魅力


テキサス、ニューメキシコ、アリゾナそしてカルフォルニアにはメキシコ系アメリカ人がおよそ人口の20-30%はいると言われている。
彼らはトランプ大統領が言う不法移民ではない。数十年前、アメリカでは人手不足が深刻で農業や建築業など白人の仕事にメキシコ移民が従事し、彼らは一世で、二世からすでに六世くらいまでアメリカ生まれがいる。アメリカ生まれは立派なアメリカ市民だ。
だけど彼らはスペイン語をそしてメキシコ文化を愛している
メキシコでは音楽生活に密着していて、多様性があり、それらはアメリカのいろんな音楽に影響を与え融合している。
TEX-MEX COUNTRY, TEJANO COUNTRYと言う。

アメリカではメキシコをテーマにした歌曲は古くからあり、カントリーソングと言うよりポピュラーソングだった。
例えば1939年のサウス・オブ・ザ・ボーダー「South Of The Border Down Mexico Way」はフランク・シナトラ・Frank Sinatoraの定番だが、Patsy Cline, Marty Robins, Willie Nelson, が唄うとカントリーだ。
原曲はGene Autry, Jimmy KenedyとMichael Carrの作曲でアメリカの曲である、
バイ・ア・コンディオス「Vaya Con Dios」1952、Les Paul & Mary Fordのギターと歌でヒットし、ナット・キングコール・Nat King Cole、フレディ・フェーダーも1976年唄っている。元はアメリカの曲でLarry Russel が書いた。これらはテハノカントリーではない

テハノカントリーは1970年代頃からメキシコ系だけでなく、白人のあいだでも普通のものになってきたようだ。
その第一世代アーティストが、後のテキサス・トーネドズTexasTornadosを結成したダク・サーム・Doug Sahm 1941-1999、 サンアントニオ生まれ とフレディ・フェンダー・Freddy Fender 1937-2006  San Benitoテキサス生 だった。
彼らはまたアウトローカントリー歌手でもある。
フレディはルイジアナ州ディビス知事が恩赦しなければ刑務所で朽ちたかもしれない。知事は彼の音楽、退廃的なロックだったらしいが、をしてはいけないとしたが,フレディはテキサスに戻り、
Before The Next Tear Next Drops Fall 」と「Wasted Day And Wasted Nights」 (これらの曲はジャンルとしては、スワンプSwamp Popと呼ばれた、スワンプはテキサス南部からルイジアナに広がる湿地地帯だ)のヒットでスターになった。歌の途中にスペイン語を入れ、ラッパ、アコーディオンを使いメキシコ色を出した。

左上オギー、右フレディー、左下ダク、右ヒメス

このグループにはフラコ・ヒメス・Flaco Jumenez1939と、オーギー・マイヤーズ・Augie Meyers1940、両人ともサンアントニオ生がアコーディンを弾き唄い、フラコは5回、グラミーテハノ・メキシカンミュージック賞を獲得している、アコーディオンおじサンだ。
彼らはTex-Mex, ポルカ、ハードホンキートンクTwo Steps,
ロマンテック・ラテンバラード
などとカテゴライズされた。
フレディが尊敬していたSir Douglas Quintetは恐らく
TexasTornadosの前身で、1968-1975活動した。サックスが入り、もっとメキシコ的サウンドだった。
このグループの4人は同じくらいの年齢で気があったのだろう。彼らの楽器演奏はとても魅力がある。

特に、ダグ・サーム・Doug Sahmが良い。フレディの横でエレキを弾くバンマス的な人だ。彼は多くの曲がある。
Laredo Rose
Soy De San Antonio
One Night
Sometimes
Dynamite Woman
Rain Came
ダグ自身は相当怪しい男だが、バンド、聴衆も、グリンゴに見えるが、
メキシカンだろう。彼のヒット曲、Crazy Baby.

リック トレビノ・Rick Trevino 1971、オースティン生は1990年代の人だ。彼の歌はカントリーとして完成されたバラードでスペイン語曲はない。曲は、
Just Enough Rope
Honky Tonk Crowd
Doctor Time
In My Dreams written Paul Malo
Running Out Of Reason To Run
Save This One For ME
She Can’t Say I Didn’t Cry
Learning As Yours そして、
Bobbie Ann Masonは高校生の愛を唄った曲、リックが野球選手を演じたり、チックスもメキシカンで、かわいい歌だ。

エメリオ・ナバイラ・Emillio Navaira 1963-2016 サンアントニオ生、
の歌はメキシカンサウンドだ。コミカルでマリアッチサウンドが生かされておりダンス曲が多い。彼の曲は、
Come Le Hare
Ella Es Asi Ei Regreso Del Rey
La Rama De Mesquite
Ya
この歌のテーマはカントリーには良くある。自宅に友達を呼び博打をやるジィちゃん、怒ってバアちゃんが家を出ていく。孫も参加して教会で仲直りさせると言う内容だ。愛と優しい心に溢れている。
Quedate,戻っておいでと言う歌だ。

ジョニー・ロドリゲス・Johnny Rodrigueq  1951 Del Rio 生
彼はカントリー曲と伝統的メキシコ歌曲は内容的に近い、と言った。飲酒とママが2大テーマだと語るが、ロマンテックバラードで白人にもとても人気がある渋い歌手だ。
イーグルスのヒット曲、Desperadsを唄い、以下のように多くのヒットがあった。アルバムも沢山ある。
Love Put A Song In My Heart 1975
Eres Tu 1977
Love Me With All 1978
Pass Me By
Here I Am Again
You Always Come Back Hurting Me
など。
以下は彼が得意としていたロマンテックバラード、Makes Me
Wonder If I Ever Said Goodbye

ディビッド・オリバレスDavid Olivaresサンアントニオ生まれ
21世紀世代の人だがスペイン語で唄っている。

Luna
Te Olvide
No TeVayas
Y TE Lo Pido
El Sonador
など。

Little Joe

リトル・ジョーLittle Joe は1940、本名ホセ・マリア・エルナンデスはニクソン、テキサス生で、とても貧しい環境に生まれた。そのメキシカン・メキシカンしたところでとても人気のある歌手だ。ウィリーを始め多くの歌手とコラボした。スペイン語で歌も語りも通し、
そのサウンドはラッパ、アコーディオンの入った賑やかなもので
聴衆も一緒に唄う。

以上の他にもメキシコにルーツを持つアーティストは多く、メキシコ本国やアメリカメキシカン社会に根強い人気がある。

新しいMarvericks

マーベリックスMarvericksはフロリダ出身のバンドだ。1990年代、ポール・マロ・Paul Malo1965,フロリダ生、もしかしたらキューバ系、が主体をなり結成された。ジャンルとしてはTex-Mexカントリーバンドに分類されている。グラミー賞は何度かとり、とても人気がある。
ファショナブルでしゃれたサウンドだ。ドラムス、ラッパなどの編成も良い。きれいなバラードを賑やかに唄う。
Come Onto Me
All You Ever Do Is Being Me Down
Dance The Night Away
Born To Be Blue
君の腕の中に戻る、Back In Your Arms Againのビデオはステージとスタジオのスイッチだ。デワイトのバックにいたエディー・プレッツの顔が見える。この後、グループは一端解散した、21世紀に再編された。

テハノ・カントリー、彼らの特色はアコーディオンやラッパを使い、独特多様なリズム、それらはメキシコの伝統的、世界遺産のマリアッチでも同じだ。独特の節回しとリズムが効いている。
メキシコ人の声はブルースバラードに合っている。
不思議と言うか、彼らの社会環境か、女性のアーティストが極端に少ないのはテハノ・カントリーの特徴だ。楽器、
アコーデオンは19世紀中部欧州から世界に広がった楽器だが、ポルカ、タンゴのリズムには欠かせないが、カントリーに使われることは少ない。だが、テハノ・カントリーではとてもポピュラーな楽器だ。テハノ・カントリーアーティストの出身、経歴から、テキサス州でも彼らのサウンドはサンアントニオ・San Antonioが中心であったのかもしれない。テハノ・カントリーを聞いていると、
音楽はサウンドが混じる合うことで魅力と威力が増すように感じる。

デワイト・ヨーカムは彼のバンド、ギタリスト、フィドラーにメキシカンを使うことが多い。

ジョージ・ストレートGeorge Strait パーサル・テキサス生まれはスペイン語歌曲を唄っている
EL Rey, Twansなど。彼はサン・アントニオに住んでいるが、やはり
彼のサウンドのルーツはあると確信した。

僕の個人的経験だが、何度かメキシコを訪れたことがある。
1986年6月のFIFワールドカップの仕事だった。
出張業務としては中国に次いで苦労した。生活環境は劣悪だった。
治安も悪い。特別な許可で滞在中、拳銃を所持していた。1か月間の滞在で1回だけ撃とうとしたことがあった。
しかし音楽だけは楽しめた。何かの祭りか、5月、街で出くわした音楽グループとダンスはとても新鮮なサウンドだった。
ほとんどのレストランが生演奏をしていた。フィドル10数人のバンドのところは2度行った。
その体験もあり、アウトローやメキシコサウンドを好きなカントリー曲でも身近に感じていたのかもしれない。以上
(第4章に続く)