4、ハンク・ウイリアムス

(ハイラム・キング・ウィリアムス)
Hank Williams (1923-53年)享年29歳

カントリーミュージックはハンクで始まり、ハンクで今まで続いていると言っても過言ではない。
戦後の75年間の歴史は彼で始まり、彼の悲劇的な死、残された歌の数々でもっているようなものだ。いろんな歌手、様々な唄を聴くと、行きつくもとはハンク・ウイリアムスだ。
10のトップテン、トップテン入35と言う人気もあるが、100曲以上の名曲を唄った。
本人も多くの唄の内容と同じ人生を歩んだ。
好きな女性との別れの曲が多いが、2度結婚し、3人の女性に各々子供がいた。
死後遺産を巡る版権会社との訴訟はレコード売り上げのロイヤリティをアメリカ音楽界で確立させた。
アラバマ州を転々として、傷痍軍人で長く入院した父に代わり母のもと姉と育ち、彼自身も病弱だったが、少年の頃、モントゴメリーでラジオ局に音楽を認められた。
モントゴメリーはアラバマ州都で隣の州ジョージア・アトランタから車で2時間ほどだ。
僕も同市にロイ・クーパーと言う友人がいて何度か行った。
年齢的には第二次大戦、同じアラバマ州で同年生まれ,生物学者アラバマ大教授ユージン・スレッジ(Eugene Sledge)博士「ペリリュー・沖縄戦記」著者とは対照的だ。博士もハンクの唄は聴いただろう。

(海兵隊時代のスレッジ博士)

ハンクは脊椎の病気があり徴兵検査に合格しなかった、目が悪かったと言われている。ハンクは戦争には行かなかったがバンドのメンバーは多く戦場に行った。

ハンクは子供の頃、黒人路上演奏者ルーファス・ティと言う人からギターを習った。
コード、それらの進行、バスのリズムなどを。このブルース奏者から大きな影響を受けた。
前の亭主と離婚したばかりのオードリー・シェパード(Audrey Sheppard)と21歳の時、結婚し、彼女が8年間にわたりハンクとデュオし、マネージャーとなり彼のキャリアを支えた。マネージャー業はそれまで母がやっていた。

ハンクとオードリー


ハンクとオードリーハンクはかなり若い時からアルコール依存症でしかも薬物も使用していた。脊椎の病気があると言うことで薬物が処方されていたと言う。

ハンクの音楽を認め、版権契約を結んだのがロイ・エイカフ(Roy Acuff)とフレッド・ローズ(Fred Rose)の2人がやる版権会社で、彼らもカントリーのミュージッシャンンだった。ロイはフィドラーでダンス曲をアレンジし有名だった。フレッドは「Blue Eyes Crying In The Rain」の作者だ。

Hank Williams Sings 初期のアルバム Fred Rose プロデュースした。

ハンクはどんどん曲を書いた。下記の曲でもレオン・ペイン(Leon Payne)、テキサスの盲目バーラード歌手、[I Love You Because]の作者と、Fred Roseが歌詞を手伝ったもの、などを除いてほとんどが彼の曲だ。

ハンクの唄った曲の一部
Cold Cold Heart
I Can’t Help It
Wedding Bells
Hey Good Lookin’
You Win Again
Jambalaya
Lovesick Blues
KAW-LIGA
A Mansion On The Hill (Fred Rose詩)
Half As Much
I Am So Lonesome I Could Cry
My Bucket’s Got A Hole In It
Take These Chains From My Heart ( Fred Rose詩)
Long Gone Lonesome Blues
Honky Tonkin’
Weary Blues
Wedding Bells(Claude Boon)
Lost Highway (Leon Pain)
Six More Miles To The Grave Yard
Searching For The Soldiers’ Grave
They’ll Never Take Her Love From Me (Leon Pain)
I Have Just Told Mama Goodbye(Slim Swet, Arly King)
Old Country Church
I Saw The Light などなど・・

ハンクの曲の傾向はほとんどが日常の中の失恋だ。それも少し自分には不釣り合いな女性との恋で。曲は分かり易く言葉も明瞭だ。「ジャンバライア」は南部料理でこの料理を巡る友人との話らしい。「カウライジャ」は木のインデアン人形の話、太鼓がきいている。

ハンクのサウンドは今ではクラシックに聴こえる。スティールギター、フィドル、ウッドベース、エレキの編成でピアノ、ドラムスは聴こえない。彼のキーは少し高いが一般的、そしてとても悲しく唄うのが特徴だ。この悲しい節廻しはなかなか真似が出来ない。
レオン・ペインの曲の影響か2小節あまり同じ音が続き、それから展開する曲もある。


ハンクのバンド、ドリフティング・カウボーイズ(Drifting Cowboys)、メンバーは変わっても同じような編成だった。

ハンクのステージギアは、ダブルのきっちりしたスーツ、色物のシャツにネクタイ、カーボーイハットとブーツで決めている。
ハンクは暗い曲が得意だ。上のリストにもあるが、「墓場へ6マイル」「ロストハイウエイ」「兵士の墓を探して」など。宗教的な面もあったと。

ハンクの音源、映像、残念ながらこの時代の質は良くない。デジタル処理をしても元が時代的に良くないのだろう。(エルビスのサン・レコードも同じだが)そして映像がテレビ時代以前なのであまり無い。これはとても残念だ。ハンクは背の高い男だったようだ。
映像でアニタ・カーター(Anita Carter)が腕にぶら下がるシーンがあった。
現代の歌手、ボックスカー・ウィリー(Boxcar Willie)などは上手にハンクの曲をメドレーするが見かけも心もあまりにも違い過ぎる。
彼の音楽著作権に関しては今年、1950年の作曲、エクパィヤーするので彼の多くの曲目はロイヤリティが失効する。
コロナ自粛で確認できないが、記憶では彼の歌はカラオケソフトでは10曲くらいあったと思う。
晩年、ハンクは飲酒と薬物でヘロヘロになり、ラジオ局、グランドオールオープリーなど首になり、オードリーと別れ、コンサートをキャンセルし、次の目的地に行くウエストバージニア、車中で死んだ。
田舎の少年が田舎の歌手になりそして多くの人達に自分のサウンドを与え続けたが
いろいろ資料を読み、話を聞いてもオードリーとの関係は事実良く分からない。彼の唄にあったようだったのか。オードリーはミセス・ウイリアムスとしてテキサスで1975年までハンクを語り続けた。ハンクとオードリーの間に生まれたハンク・ウイリアムスJRがヒットチャートに出たのは何かで聴いて覚えている。JRのサウンドはロック、ブルース、カントリーのフィージョンで「Blues My Name」[A Time Sing]そして「Songs My Father Lefts」
などだ。JRは僕のサウンドではない。
JR