3、パッツイ・クライン

Patsy Clein (1932年―1963年)

彼女はカントリー史上、女性歌手として最高峰の地位を確立してことと、他の女性歌手のカントリーミュージック界への登竜門を開いたことで有名だ
彼女は僕がカントリーを聴くか聴かない頃に航空機事故で死んだ。

Patsy Clein

彼女の人気を再認識したのは1990年代半ば、3年続けて5月末にアラバマの「バンザイシューティング」に参加した時だ。ブレビンズ家の裏山で日本帝国銃器を撃ちまくると言うイベントだが、近辺から毎年延べ数十人が集まった。楽しい会で、奥さんたちも一緒に来るが、僕の車のカントリーCDのパッツイのものを彼女たちが聴いていたことだ。パッツイの声はアルトで女性に人気があると感じた。ちなみに参加者ほとんどがブレビンズの家に2泊した。

その時に彼らに以下の逸話を話したが誰も信じて呉れなかったのも記憶にある。
その逸話とは、パッツイをはじめて全国番組で紹介したアーサー・ゴッドフリイ(Arthur Godfrey)と僕の話だ。1977年7月3日、僕はその前年までニューヨークにいて、アーサーのイベントに参加することになっていた。アーサーは米国ではエルビスと発見したエド・サリバンと並び超有名人だったからだ。

Arthur Godfrey

1977年独立記念日のアーサーのイベントは、彼が操縦する航空機に日本人コーパイが搭乗してハドソン川上空を飛ぶと言うものだった。JALにそのコーパイ探しの依頼が来て、僕が選ばれた。この話のアレンジャーは現在、オレゴン州の老人ホームにいる藤松忠夫さんとその部下だったパトリシアだが。パトリシアが大興奮していたが、当時の僕はアーサーなるキャラクターのことはあまり知らず失礼した。

もう東京に戻っていたがJALの手配でニューヨークに行き、3日午前中にアーサーが自ら運転するリンカーンに乗り、2人でウエストチェスター・エアポートに行った。
あいにく天候は悪くなると言う予報だった。イベント前日の昼前、雲が低く雨が降り始めた。
アーサーと搭乗機をチェックし、ウエザーも。でもどうしても4日に天気が回復する見込みは無いと言うことで昼過ぎに独立記念日の飛行は中止をなった。
彼の頭にはパッツイの事故のことがあったに違いない。帰りにアーサーと僕はサードアベニューの高級中華レストランに入り、遅い昼食をゆっくり食べた。その時にカントリーミュージックの話を沢山したことだ。彼はニューヨーク生まれだが、「ジ・オールド・レッドネック」と自ら番組で言っていたそうだ。(レッドネックは南部の田舎者と言う意味)
彼のカントリー歌手についての「自らの人生の苦難(トラブル)を語る音楽」と言う言葉が忘れならない。アーサーはこの時74歳だったが、1983年に死んだ。とにかく米国放送史上、彼は一番のラジオ、テレビ、CMの寵児だった
パッツイは彼の番組において、「真夜中過ぎの散歩」(Walking After Midnight)でデビューしたと後に何かで読んだ。
この話は1995年、ニューヨークで会社を立ち上げた時にもアメリカ人の仲間にしたが、彼らは半信半疑、僕を虚言癖とみた人もいたようだ。

そして2008年夏、僕は全装銃射撃環太平洋大会に参加した。場所はバージニア州ウエンチェスターと言うワシントンDCから車で1時間半くらいの南北戦争古戦場の町だった。この大会も楽しかった。僕は911後のアメリカ入国の銃規制を知っていたから、日本から銃は持参せず現地で借りた。フリントロック、エンフィールド、コルトアーミイなどだ。これらは新しい経験になった。南北戦争当時の4ポンド野砲も撃った。この小さな町がパッツイ・クラインの生誕地だった。彼女が生まれた家も見た。今は黒人街で、ちかくにいた少年に5ドルやり車を見て貰った。


ライブハウスにも行って、パッツイの歌「Crazy」を聴いた。他の日本人選手、2人のスカンバックは誘わず正解だった。

前置きが長くなったがそんなわけで僕はパッツイをいろんな面で知っていた。

パッツイ・クラインはカントリー歌手だが、カントリー以外の広いサウンドをこなした
ポピュラーやジャズ系、ラテン系だ。フランク・シナトラ、ビング・クロスビー、アービング・バーリンなどの歌も。
彼女は新しいカントリーミュージックサウンド展開のきっかけを作った点でも評価された
両親は年が離れていたそうで、年寄りの親父が出て行ったそうだ、彼女は若い母親と貧しい少女時代を過ごし、高校中退した。あらゆるアルバイトをして地元のクラブで歌いはじめた。
歌は教会で始めたそうだ。教会音楽がカントリー、ジャズにとても重要と分かる話だ。

声と歌い回しに特徴があった。肺活量の大きい人だったのだろう、息が続く。低い声だが
高い声まで出る、音域が広い。音楽教育は受けてなかったが、絶対音感の持主で、どんな歌でも一度聴いたら歌えた。作曲者は電話で歌って伝えたそうだ。それにスローな曲をとても
感情を込めて歌う。こんな女をふった奴は悪魔か馬鹿だと言う感じを受ける。

母親が作ったカウガール衣装、20代だがおばちゃんぽい。
身長、体重の資料はないが、大きな女性だったようだ。親分肌で、相手を「Hoss」今ならガィズだろうが、と呼んだそうだ。コクラン、ハワードなどゲイっぽいソングライターや後輩の女性歌手,ロレッタ・リン(Loretta Lyn)やブレンダ・リー(Brenda Lee)らとの付き合いを大切して、彼女たちに衣装などを与えたそうだ。とても短い間だったが、カントリーミュージック界では不動の地位を確立した。2回結婚して、3人子供がいた。
ものごとや交渉事を論理的、率直に言う女性だったそうだ。だが、お告げを信じ、脅迫観念にとらわれるようになった。ものによると大きな自動車事故2回にあってからだとしている。カンサスのコンサートから直ぐにナシュビルに帰らねばと言い、悪天候の中、強行に小型機を飛ばさせて、事故に遭った。パイパー機に有視界飛行の操縦士だった。無謀を絵にかいたような飛行だった。ナッシュビルの手前で森に突っ込んだ。墓はウエンチェスターにある。

彼女の歌は多岐にわたるがカントリーとしては以下をあげる、彼女のためのオリジナルは元より他人の持ち歌、ハンク・ウイリアムスの曲も上手だ。

Sweet Dreams  by Don Gibson
Crazy by Willie Nelson
Faded Love by Bob Willis
Walk’ After Midnight by Alan Block and Donn Hecht
Foolin’ “Round by Haran Howard
I Fall To Pieces by Haran Howard
She Got You by Hank Cochran
Back In Baby’s Arms by Bob Montgomery
So Wrong by Carl Perkins
Heartaches by Al Hoffman and John Klenner
You Belong To Me
Once A Day
Just Out Of Reach
Seven Lonely Days
まだまだ沢山ある。

彼女はカーネギーホールでコンサートもやっている。もし彼女が長く生きていたら、他のジャンルの音楽でも有名になっていただろう
彼女の曲を歌っているミレニアム世代はリー・アン・ライムズ(Lee Ann Rims)だ。
この項以上