5、映画「炭鉱夫の娘」(Coal Miner’s Daughter)邦題「歌え、ロレッタ愛のために」

この映画は1980年製作、ロレッタ・リン(Loretta Lynn)の1970年のヒット曲、「炭鉱夫の娘」、1976年の彼女の自伝に基づく作品で、アカデミー作品賞と
主演女優賞を受賞し、ゴールデングローブ賞も受賞した。
主演はシシー・スパイセク(Sissy Spacek),監督マイケル・アプテッド(Michael Apted),助演、夫ドウー(Doo)を「ボス」ことトミー・リー・ジョーンズ(Tommy Lee Jones)。

アメリカ人と話していて、彼らの特徴的なことがある。それは、
自分の育ち、良くないこと、貧しかった、無知だった、いろいろあったを、どんどん話すのだ。コネチカットに住んでいた時、隣のそこそこ裕福なおばちゃんが自分は収納上手だ。それはトレラーハウスで育ったからだと言った。

ロレッタは1932年生まれ、ケンタッキー州、炭鉱の奥、ブッチャーズ・ホロー(屠殺場の谷)と言う恐ろしいような山の中でアイルランド系炭鉱夫の娘だった。彼女が14歳の時、弟を抱いている写真があるが、結構もう大人だ。後に妹クリスタル・ゲール(Crystal Gayle)も生まれた。
翌年、復員兵ドウ・リトルと結婚した。オレゴンに移り、4人の子供の母ながら歌手としてデビューした。実家は床下に豚や鶏、馬がいたような丸太小屋で7人の兄弟姉妹と育った。大人の飲み物はホワイトライトニング(密造酒)と言うようなところだった。それを唄ったのが彼女作の「炭鉱夫の娘」だ。いい歌だ。歌には飼っていた豚を売り子供の靴を買ったとある。
この少女時代の部分が長いがとても当時の雰囲気が出ていた。

このシーンはロレッタの写真を忠実に復元、DVD表紙
ロレッタの自伝には多くの企画が持ち込まれたが彼女が「シシー」を選んだそうだ。
シシーはスティーブン・キング原作、ブライアン・デパルマ監督「キャリー」と言うオカルトで名を挙げていた。1949年、テキサス生、カントリーミュージック好きに自分でも歌っていた。貧相な体だが、少女から中年までのロレッタを演じるには良かった。
南部なまりも自然だった。

ロレッタを友人として付き合ったパッツィ・クライン(Patsy Clein)の役はベバリー・デ・アンジェロ(Beverly D’Angelo)がやりオープリーで「スゥィート・ドリームズ」(Sweet Dreams)を唄うがとても上手かった。2人が雨の中、傘を差して舞台に立つワンナイトスタンドのシーンは印象的。
シシーが上手くはないが、全曲唄った。この映画は歌を聴かすのが目的ではなく、家族愛とか女性のありかた、母の本質がテーマなので、いろんな曲が、舞台が出てくるが部分的で全曲唄ったのは最後の「炭鉱夫の娘」だけ。I am a Honky Tonk Girl 、Don’t Come Home A Drinkin’などが映画全体に流れるテーマ曲だった。

ドウ-は彼女の歌の才能を見つけ、売り出しにはとても働いた。だが、ロレッタはドウーの浮気には参ったと後に語っていたのを見た。彼らは別れなかつた。最終的には6人の子供がいた。

この映画の成功の背景は、テーマを明確にしたこと、カントリーミュージックへの理解があったこと、曲の権利を払い使ったことなどではないか。
カントリーミュージック映画としては製作費も掛かっており、超一流で、アメリカ公文書館で永久保存されるそうだ。

ロレッタの称号は「ファーストレディ・オブ・カントリーミュージック」(大統領夫人)と言うのだから凄い。
彼女が後に、デユォを組んだコンウエイ・トウィッティ(Conway Twitty)
との部分は全くない。ナッシュビルのシーンではアーネスト・タブ(Ernest Tube)、ロイ・エイカフ(Roy Acuff)は本人たちが出た。
アメリカでも戦後、田舎では靴も履かない子供たちがいて、貧しい生活があった。そんな
なかでラジオを媒体にしてカントリーミュージックが人々の心をとらえて行く様が良く描かれていた。(以上)

字幕版、映画Coal Miners Daughter へのリンク
https://youtu.be/VPFrpHf0NNE